© Atsushi Kondo /YMFS

左側 © Atsushi Kondo /YMFS / 右側 © SWIMMING MAGAZINE

野口智博

プロフィール

1966年島根県松江市生まれ。
日本大学文理学部体育学科卒
日本体育大学大学院トレーニング科学系修了(体育科学修士)
競泳男子400m自由形 元アジア記録保持者

山陰から世界をめざした努力

小学校3年生の時に松江市内の堀川に落ちて溺れそうになったのを機に水泳を始める。当初は溺れない程度の泳力がついたらやめる予定だったが、高身長だった野口の父親を知る梶谷節夫(当時島根県水泳連盟理事長で、島根スイミングスクールコーチ)に体型的な将来性を見出され、本格的に取り組むようになった。当初は箸にも棒にも引っかからない程度の泳力だったが、小学校4年生の時に、エントリー選手が極めて少ない県内の大会の男子1500m自由形に強制エントリーさせられて完泳し、小学生で上位に入ったことから、長距離に活路を見出した。その翌年には、後にモスクワ、ロス五輪日本代表となる坂本弘の持つ島根県学童記録を破り、日本一を志すようになった。
学童時代は、200m、400、800、1500m自由形で島根県学童記録を樹立したものの、中学1年で伸び悩み、当時代々木オリンピックプールで開催されたFINAカップを、伸び悩みを打開すべく観戦に行った。しかし、郷土の先輩で日本代表として参加した坂本弘らより速い外国人選手たちの泳ぎに圧倒され、目標を見失いかけた帰りに、東京駅地下の喫茶店「マイアミ」で広島・フジタドルフィンクラブから愛知・東レスイミングクラブへコーチとして移籍したばかりの本多忠(ミュンヘン、モントリオール五輪代表、背泳ぎ、個人メドレーなどで日本記録を保持した)と偶然の再会。母親が熱心に本多へ相談を持ちかけた結果、中学2年生の時には名古屋市へ単身乗り込み、1年間水泳留学も経験することとなった。

このような母親の熱心なサポートにより徐々に力をつけ、中3の梅雨時期に、島根国体に地元島根からエントリーするために松江に戻り、高校は松江日大(現立正大淞南高校)へ進学。中3の頃から、東京大学教授(当時)の宮下充正博士が島根県水泳連盟の科学サポートに就き、ウエイトトレーニングや毎月のパワー測定、形態測定に始まり、練習中の糖質補給などの栄養サポートに加え、高校入学後は往復20kmを自転車で通い脚力もつけた結果、高校1年生の時に行われた島根国体では、県競泳勢最初の入賞(5位)を果たした。

服飾デザイナーだった母親が忙しく、料理の手間がかからないようにと島根和牛を用いたすき焼きや、干しカレイ焼き、しじみ、県産わかめの味噌汁など、良質な地元の栄養を豊富に取ることができたと回顧している。父親は「島根に野口あり」と言われるほど有名な白バイ隊員で、生涯現役にこだわった。1964年の東京オリンピックの際の聖火リレーの先導も務めた。

実父は白バイ隊員として、1964年の東京五輪の聖火リレーの先導を松江市でつとめた。

インカレ四連覇を果たす

日本大学進学後は、合宿所のある目黒区碑文谷にて厳しい練習を積み1500m自由形ではインカレ4連覇を果たし、リレー種目も含め優勝9回、2位5回、3位以下に落ちたのは1年次の決勝最初の種目400m自由形のみで、4年間合計96点(今のシステムでは280点相当)を獲得し、卒業時に総長賞を授与された。なお、4年次は主将でもあった。

オリンピックの代表選考会には高校3年生(ロスアンゼルス)大学4年生(ソウル)社会人4年目(バルセロナ)の3回出場したが、努力の甲斐なくオリンピックには出場することはできなかった。日本代表としての活動歴は、大学1年の神戸ユニバーシアード大会から、1991年世界選手権まで7年間で、1989年からは日本代表主将も務めた。

大学卒業後は、鈴木陽二先生の指導を仰ぐためセントラルスポーツ株式会社へ就職し、研究所・研究室に勤務した。現在何度かの改定を経ているが、同社の「スポーツ奨励社員」制度の第一号であった。今では社会人スイマーは珍しくないが、当時は大学で引退する選手がほとんどであったので、社会人スイマーとしての道を拓いた一人でもある。また、セントラルスポーツ時代は、同級生でもある鈴木大地元スポーツ庁長官が、陸トレの際のパートナーであった。

1986年インカレ800mリレーで優勝した、歓喜の瞬間。

1990年アジア大会400m自由形 金メダル 写真提供:スイミング・マガジン

27歳で現役引退、31歳で大学院へ

バルセロナオリンピック代表選考会に敗れた後、27歳で現役引退を決意。その後、1995年から1997年まで母校日大水泳部コーチとなるが、成績不振に喘ぎ1997年のシーズンを経て辞任。進むべき道に悩み苦悩したが、妻のアドバイスを受け日本体育大学大学院を受験し、1度目の受験に失敗したものの、2度目で合格。31歳の春のことである。大学院同期には「ヤワラちゃん」こと谷亮子がいた。大学院では、当時新設されたばかりの「トレーニング科学系」の浅見俊雄教授に師事し、「科学」と「現場」を行き来しながら、コーチング術を学んだ。

修了後は、武蔵野音楽大学で一般体育の非常勤講師として勤務しつつ、自身の会社有限会社コブラツイスト(現株式会社フリースタイル)を設立し、競泳選手の強化サポート事業やマスターズ練習会などを主宰した。2000年に母校の専任講師公募に応募し、2001年に日本大学文理学部非常勤講師として1年間、古橋廣之進名誉教授と共に授業運営を経験し、2002年より専任講師、2005年に助教授(現在の准教授)、2011年に教授となり、今に至る。

古橋廣之進先生の後継として日本大学へ

古橋廣之進先生の後任として日本大学文理学部で教鞭を持つようになって、古橋先生の教えとして今でも野口が励行しているのは「授業を休講にしない」ということである。日本水泳連盟会長、JOC会長時代も、古橋先生が授業を休講にすることは1度もなかった。2001年の福岡世界選手権と臨海実習が重なった際には、実習初日に福岡から岩井海岸へ飛び、実習の遠泳まで指導してから、翌日福岡へ戻るほどの徹底ぶりであった。また、2000年過ぎに日本水泳連盟が強化選手へ「茶髪とピアス禁止」という指導をしたにことがあったが、その後古橋は自身が顧問を務めたサークルの新入生歓迎会の際に、「私はその格好がいけないと言っているわけではない。そこに費やす時間があれば、練習したり勉強したり、限りある時間をもっと自分が強くなるために使えるじゃないですか」とその理由を述べていた。戦時中に泳ぎたくても泳げなかったり、勉強したくてもできなかった経験を持つ古橋先生からの理路整然とした言葉に、いつも圧倒されるばかりであった。(文中敬称略)

日本大学では精力的に未来を担う学生の指導にあたっている。© Atsushi Kondo /YMFS
日本大学では精力的に未来を担う学生の指導にあたっている。
© Atsushi Kondo /YMFS

上級コーチとして、日本水泳連盟科学委員として

2003年に森隆弘(アテネ五輪ファイナリスト)の指導を担当したことをきっかけに、日本大学水泳部コーチに復帰し、2005年にインターカレッジ総合優勝しその後2007年までの3連覇に貢献した。2010年のシーズンを最後に再びコーチを辞し、その後は日本水泳連盟科学委員のメンバーに入り、学会活動やレース分析サポートを中心とした業務にシフトした。2012年ロンドンパラリンピックの前年から、木村敬一(当時日本大学文理学部教育学科、現東京ガス)のウエイトトレーニングを、NSCA-CPTとして担当し、木村のパラリンピック初メダル獲得に貢献した。ロンドン後から2016年リオパラリンピックまで木村のパーソナルコーチとして強化活動を献身的に進める過程で、富田宇宙(日本体育大学大学院・EY)や村上舜也(フリースタイル)ら障がい者スイマーが集まり、野口の指導を乞うようになった。富田宇宙の所属先や大学院進学は、フリースタイルからの紹介であった。リオパラリンピックで木村が4個のメダルを獲得したことで文部科学省スポーツ功労者顕彰、ヤマハ発動機スポーツ振興財団・スポーツチャレンジ賞を受賞した。

解説者として30年近くトップスイマーの泳ぎを分析

野口を著名にしたのは、雑誌やテレビでの解説者としての仕事であった。1994年TVKの日本学生選手権の中継からテレビ解説を務め始めると、その翌年はNHKでインターハイや国体などの解説を担当し、徐々に日本選手権や世界選手権へと歩を進め、2000年シドニーオリンピックより、2008年北京までの3大会のテレビ・ラジオ解説も務めた。北島康介が釜山アジア大会で自身初の世界新記録を樹立した際にも、解説者としてその快挙を伝えた。テレビの向こう側にいる選手を応援してきた家族や学校関係者などの方々に喜んでいただけるようにと心がけながらも、選手への心理的負担や動揺をさせないように、選手から直接談話を聞くようなことはほとんどせず、担当コーチ達から選手の情報を入手するスタイルで情報収集をした。また、NHK解説者時代に、島村俊治アナウンサーや藤井康生アナらの事前情報収集の量と質の凄さを目の当たりに見て、前取材の重要性を感じ、オリンピック前には事前合宿地へ取材に出向くことはもちろん、リサーチャーの力を借りながら海外情報なども広角的に収集し、準備に念を入れていた。

半熟Bとして現役選手時代から連載コラムをもっていた『スイミング・マガジン』(ベースボールマガジン社刊)では、現在も世界のトップスイマーの泳ぎを写真と共に解説する「テクニカル・フォーカス」を担当し、それらが『トップスイマー・テクニック』としてMOOK本にもなった。

「野口さんの記事や語りは、トップアスリートとしての目、指導者としての目、科学者としての目で分析したことを、一般の我々レベルでもわかるように、端的に頭に残るフレーズで語ってくれる」という評価をマスコミの方からいただいたことがあり、今後のさらなる活躍が期待されている。(文中敬称略)

主な成績

1982年 島根国体少年B(高校1年生の部)400m自由形 5位
1984年 ロサンゼルスオリンピック選考会 1500m自由形 6位
1984年 秋田インターハイ 400・1500m自由形 優勝(大会新)
1985年~1988年 インカレ4連覇 1500m自由形(卒業時 日大総長賞受賞)
1986年 ソウルアジア大会800mリレー 優勝
1987年 ユニバーシアードザグレブ大会 1500m自由形 8位(日本歴代2位の好記録)
1988年 ソウルオリンピック代表選考会 400m自由形
1989年 パンパシフィック東京大会
1990年 北京アジア大会
1991年 パース世界選手権大会
1992年 バルセロナオリンピック代表選考会 200自由形5位, 400m自由形4位

解説者として >>

日本大学文理学部での講義担当科目

教職過程科目の「スポーツ実習(水泳)」
日本スポーツ協会水泳コーチライセンス科目の「スポーツ方法論(水泳)」
「スポーツ指導法(水泳)」
日本スポーツ協会公認コーチ共通科目である「コーチング論」「トレーニング理論」の授業を担当

学会員として

日本体育学会(体育方法専門領域)理事
日本コーチング学会理事
日本水泳・水中運動学会会員
日本水泳連盟科学委員
日本体力医学会会員

・指導資格

日本スポーツ協会公認コーチ4(旧上級コーチ)
NSCA-CPT(全米ストレングず&コンディショニング協会、認定パーソナルトレーナー)
日本スポーツ協会公認コーチ共通科目 コーチデベロッパー

著作物

『速く美しく泳ぐ!4泳法の教科書』(ナツメ社刊)
『知的に水泳レッスン』(ベースボールマガジン社刊)
・『トップスイマーズ・テクニック』1・2  (ベースボールマガジン社刊) 他